祝祭と日常

カネコアヤノという歌うたいがいる。

今日はその歌うたいの声と詩に触れるため、武蔵野公会堂に行ってきた。



彼女の歌を初めて生で聴いたのは今月1日、ラジオの観覧でバンド編成だった。その次の日には私の地元群馬で行われたグッバイサマーというイベントで弾き語りを聴いた。
バンドセットも弾き語りもそれぞれに良さがあり、その両方の良さを体感できた2日間はとても素敵で忘れがたいものとなった。
しかしいずれも40分ほどのライブ。もっと、もっと彼女の歌に触れたいと思い今日の弾き語り単独演奏会に行くことを決めたのだ。

彼女の歌は日常を切り取ったものばかりだ。
それは私たちが生きる日常でもある。
何も変わらない、みな同じような景色の中で生きている。カネコアヤノもそうだろう。
しかし同じ景色の中を生きていてもカネコアヤノにしか切り取れない"何か"があって、その何かが彼女の詩にはいっぱいに詰まっている。
決して難しい言い回しじゃないが、しっかりと心の隙間を埋めてくれるような"ちょうど良い"言葉の数々。
それらの言葉がどこまでも力強く柔らかい歌声に乗って飛んでいく。

不意に涙が溢れそうになる。
というか溢れに溢れた。ライブ中何度もはらはらとこぼれ落ちた。

特に"祝日"のイントロのギターがなった瞬間から彼女が歌い終えるまでの間、あまりにも涙が出てくるものだからずっと視界がぼやけていたような気がする。

その後のアンコールではトートバッグをかけて登場してきて、その中から次々にグッズが出てきた。
嬉しそうに新しいグッズを紹介する姿からモノに拘る彼女の姿勢が感じ取れた。
喋りはどこか抜けていてとても可愛らしい。歌っている時の緊張感はどこへ行ってしまったのだろうかというほどに柔らかい雰囲気。そこもまた魅力的だ。

そしてグッズ紹介も終わり本当に最後の一曲。
"とがる"
今年になって存在を知ったばかりだが、その短い期間でも彼女は変わり続けている。変わっていく覚悟。これから進んでいく覚悟を確かに感じることができたような気がする。変わっていくことに素直でいるのは勇気がいることだろう。それがカッコいい。

そうして凄まじい多幸感の中、カネコアヤノ弾き語り単独演奏会 武蔵野公会堂公演は幕を閉じた。




彼女の歌は何気ない日常を祝祭に変えてくれる。
仕方がないことも良いことも、全てを受け入れ肯定していくのだ。
晴れている、それだけで十分に幸せだ。

同じ景色の中にいても生きかたによって世界の見え方は変わる。
不安もある。でも明るい明日を信じて今日を生きるしかない。

できないことも頑張ってやってみようと思ってる。祈りか、願いか、お守りのような言葉だ。