描けなかったもの

結構前のことなんですけど、デアデビルのシーズン1を見ました。

特にネタバレとかになるようなことは書きませんが、少し思うことがあったのでその思いを書いていきたいと思います。

まずデアデビルはマーベルコミックの作品でありまして、ドラマはNetflix製作。一応デアデビルMCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)の一作、つまりアイアンマンやアベンジャーズと同じ世界での出来事を描いています。

舞台は映画アベンジャーズで勃発したニューヨーク決戦において甚大な被害を被り、大きく治安が悪化したニューヨークのスラム街、通称デビルズキッチン。
主人公のデアデビルことマットマードックは幼いころの事故で盲目になってしまうのだが、その後師匠となる人物に出会うことで人間離れした洞察力と身体能力を会得することになる。
大人になった彼は昼は弁護士として法に従い犯罪者に裁きを、夜は法では裁ききれない悪をデアデビルとして撃退していきます。
弁護士としてのマット

そんな彼にも1つの信条があります。それは決して相手を殺さないこと。相手がどれほど残酷な犯罪者であろうとも決して命を奪うことなく裁きを受けさせるということ。


デアデビルは決して人の命を奪わない、いわば不殺のヒーローなわけですが、DCコミックにも同じように不殺を信条としたヒーローがいます。
それはバットマンです。


バットマンヴィラン(敵)として登場するキャラクターはジョーカーをはじめとしたトラウマを抱えた精神異常者ばかり。

アメコミの悪役といえばジョーカーを思い出す人も多いのでは?

そしてバットマンその人も例外ではなくトラウマや狂気を抱えた人間なのです。
彼はヴィランと対峙するなかで自分の中の狂気に蝕まれていく。しかし相手の命を奪うことなく裁きを下すことで彼の心が完全に闇に堕ちることはないのです。

たびたびジョーカーはバットマンのことを"唯一の理解者"であると語ります。ジョーカーと対峙する中でジョーカーとバットマンを分け隔てる境界線はどんどん曖昧になっていく。ジョーカーが言うようにバットマンとジョーカーは非常に似た人物であるのかもしれない。
己が何者なのか?正義とは?悪とは?全てが曖昧になって自分でも進むべき道がわからなくなる時、信念が折れそうになる時、それはヒーローが敗北に近い時です。

その信念が折れそうになる瞬間を描いてこそヒーローの苦悩を描いたと言えると思うのです。また、同時にその折れかかった心が再び強固になってまっすぐにそびえ立つからこそヒーローはヒーローたりえるのだと。

そういった観点からいえば、バットマンが狂気に飲み込まれてしまいそうになるなかでも、彼の信念が折れずにヒーローであり続ける姿を描くには彼は決して人を殺してはいけないのではないか?

どんなに追い詰められていても、心が壊れそうでも、最後の一線を超えないからこそダークナイトを描く意義がある。


しかし映画ダークナイトではというと、バットマンは親友であったハーヴェイ・デント(トゥーフェイス)を殺してしまいます。

デントは高潔な地方検事であり、ゴッサムシティの希望の星となるべき人物、つまり彼も大いなる信念を持った正義の男でした。

しかしジョーカーの手によって恋人のレイチェルを失い、自身も顔の半分が大きく焼けただれる重い怪我を負ってしまいます。

その後、彼は愛する人を失った怒りや街への希望を失い次第に狂気に取り込まれていくのです。彼はレイチェルを助けられなかったバットマン汚職だらけの警察、街そのものに憎悪を向けていくのです。

彼ほど信念を強く持った人間でさえ闇に落ちてしまう可能性があるということを描いている訳ですね。

しかしその対比として最後までモラルを捨てない男、信念の人を描く必要がある。高潔なデントという人物でさえ飲み込む闇を前にしても決して屈しない人物こそダークナイトであるべきなのです。

そう、ダークナイトは決して信念を曲げない人物、人を殺すことなどないのだ。ないはずなのだ。
しかし劇中では訳のわからねえ蝙蝠タックルでいとも簡単に親友の命を奪ってしまう。
いや、折れちゃったよ心が。俺の心も、ダークナイトの心も

ダメだろ。そこで殺さないからこそのダークナイトでしょ。これならこの作品を描く意味なんてねえんだよ。
しかもレイチェルを巡って少しだけ恋心を巡らせるチープな展開とか必要でした?脚本は何を考えてんだ?まじで
こんなチープな展開で何がヒーローの苦悩だ?ずっと画面を暗くして登場人物を死なせればシリアスで苦悩するヒーローが描けると思ったのか?
そうじゃないだろうよ、と僕は思うのです。(少しばかり口が悪くなってしまった)
その点デアデビルは折れない。敵対するヴィランも大いなる信念を持った男である。目的を成し遂げるためには様々なものを失う覚悟ある。自分の信念に向かって突き進む覚悟がある。時代や立場が違えば正義でありヒーローでもあったかもしれない男だ。しかしそのヴィランデアデビルを明確に分けているのはやはり人を殺すか殺さないかなのである。

自分も人を殺すかもしれない、ヒーローとはいえないかもしれない。狂気に飲み込まれる。何が正義かわからなくなる。それでも最後まで彼の心が折れることはない。どんなに危機的状況に陥っても人の命を奪うことはしない。
だからこそデアデビルデアデビルであり続ける。
これこそがダークナイトが描くべきヒーローの姿であったはずなのだと思わずにはいられないのだ。

鮮やかなままでにその姿を描いた作品と描けなかった作品。
この2つの作品は描こうとした本質は共通のものであったはずだ。しかし全く異なる作品になってしまった。少なくとも私はそのように感じた。

是非みなさんにもこの両作品を見てもらいたい。私と同じように感じる人、そうではない人、様々な意見や感想があると思う。

私の意見が正解だとは限らない。だが1つの作品の見方としてこのような意見を提示しておきたいと思った次第である。